敬語を話すべき?
どこで見聞きしたのかは忘れたが、日本語の大きな特徴に敬語の存在があるらしい。
つまり、外国語には敬語が存在しないということだ。
ふとこの話を思いだ私は、その真偽を確かめるべくYahoo知恵袋で調べてみた。
すると実は、外国語にも敬語と表現できるようなものはあるらしい。
せっかくなら敬語が日本固有のものであった方が記事の導入としてはやりやすかったのだが、あの、あのYahoo知恵袋にそう書いてあるのだから正しい情報なのだろう。
とはいえ、やはり敬語は日本語を扱う上で欠かすことが出来ない大きな要素である。
辞書的な表現を見てみると
「主体(書き手、話し手など)とその相手(読み手、聞き手)やその話題中の人物との社会的関係(親疎、権力の大小)と態度を表す言語表現である。」
とある。
噛み砕いて解釈するならば
・親しくない人間
・目上の人間
・尊敬している人間
に対して使うものと言えるだろう。
たとえば公の場での会議などでは皆が敬語を使う。
これは、参加者が互いに敬意を示すことで円滑な会議の進行を行おうという共通認識があるからだ。
たとえば合コンに参加する時。
決してオフィシャルな場面ではないものの、最初の自己紹介は敬語を使うだろう。
初対面の人間にいきなりタメ口で話しかけることは、世間的に憚られる。
たとえば体調が悪くて病院を受診するときに、多くの人は医者に対して敬語を使う。
医者だからというだけで手放しに尊敬するという人もなかにはいるかもしれないが、殆どの場合、医療について詳しい医者の診察、指示を仰ぐ立場としての礼節を弁えた態度を敬語として示しているのだろう。
これらは一例だが、似たような場面は日常生活の中でも大いに起こり得る。
多くの場合、敬語を用いることで円満な人間関係を築くことができるのは間違いない。
では、次の例はどうだろうか。
大学生のAは授業にも出ず遊んでばかり。
後輩のBは、Aに対してこう言った。
「Aさん、単位大丈夫ですか?このままだと留年して、来年は同じ学年になりますよ。」
翌年、留年してしまったAに対してBはこう言った。
「だから言ったじゃん。Aは留年したんだし、今日からタメ口でいいよな。」
その発言に憤慨したAとBは喧嘩になってしまった。
ここで、考えてみてほしい。
なぜBは急にタメ口を使い始めたのだろうか。
それは、Aが留年したことにより学年を基準とした上下関係がなくなり、Bにとっての「目上の人間」ではなくなったからだ。
ではなぜ、AはBの発言に怒ったのだろうか。
それは、Bが自分のことを、ただの「高学年の人間」としてしか見ていなかったことを理解したからだ。
Aにほんの少しの器の広さがあれば、もしくはBに最低限の配慮があれば、この喧嘩は起こらなかったかもしれない。
しかし元を辿ると、BがAに対して敬語を使ったという「歴史」がなければ、極端な話、「敬語そのもの」がなければこのような事態にはなっていない。
敬語の存在によって人間関係に亀裂が入ることもあるのだ。
このような事態を避けるためには、我々はどうすれば良いのだろうか。
日本語を母国語とする以上、敬語の存在を無視することは出来ないし、敬語の存在を前提とした文化に身を置かねばならない。
初対面の人間に敬語を用いないのは無礼だとみなされ、尊敬していない人間であっても年上と言うだけで敬語を用いることをしなければ社会から淘汰される。
ならば、敬語を、形骸化してしまった部分も含めて扱わなければならない。
敬語を使わないことによるデメリットが発生する可能性を見極めなければならない。
その場の雰囲気や相手との関係性に応じた言葉遣いを取捨選択し、常に気を張った発言をしなければならない。
なんとも心労の絶えない生活だが、仕方あるまい。
それがこの国で生き抜く術なのだ。
難しい?出来ない?
その見極めが出来ないのならば常に敬語を話せば良い。
上司にも部下にも、両親にも兄弟にも、賢者にも愚者にも、街で通りすがったベビーカーの中の赤ちゃんにも、敬語を話せば良い。
これで万事解決だ。
これが、「ぼくのかんがえたさいきょうのけいごのつかいかた」である。
せっかく思いついたのだから、この機に皆さんに紹介させていただいた。
是非皆さんにもこの方法を信用し、実践してもらいたい。
え?信用出来ない?
大丈夫、この方法は確実です。信用してもらっても大丈夫です。
え?どのくらい信用していいのかって?
そうだなあ、Yahoo知恵袋と同じくらいには信用してもらって構わないよ。
追記
僕はAさんと同じ境遇ですが、(元)後輩の方でこの記事を読んでる人がいたとしても安心してください。
僕にタメ口で話しかけても怒ったりしません。僕は賢者なので。