ミラノ風雑記
「299円」は私にとって期待しすぎないでいられる価格であった。
しかしなるほど、確かに看板メニューとして推しているだけのことはある。猫舌はこちらの責任であるのでこの料理に非はないのだ。
と、謎の上から目線でその味を評価したことは覚えている。前代未聞の食レポであろう。
数分後、ヒリヒリと痛む舌を水で労りながら私は食事を終えた。
しかし虚心坦懐とはいかなかった。
青く澄んだ秋空に浮かぶひときれの雲のような、眼前の書道紙に垂れ落ちた一滴の墨のような、そんな僅かなわだかまりが少しづつ浸潤し、心を支配していった。
ー「ミラノ風」とは何なのかー
有名な話ではあるが、ドリアは日本発祥の料理である。広義では和食だ。つまりイタリアンを背負っているレストランの看板メニューが和食であるということになる。これは一体どういう了見なのだ。
よもや「ミラノ風」を振りかざしているのは、ドリアをイタリア料理と錯覚させる意図があるのではないか?そんな邪推を禁じ得ない。
ある家庭では子供がドリアを食べたいと言うものだから、家事に不慣れな母親はドリアのレシピを調べて必死に調理する。そう、我が子の笑顔が見たい一心で。そうして食卓に出されたドリアを食べた子供はこう言うのだ。
「これじゃない。ちゃんとしたミラノのが食べたいの!」
これを日本の食文化の敗北と言わずになんと言おうか!
このような悲劇を起こさない為にも、企業には責任ある対応を望むばかりである。
では最初の疑問に戻るが、「ミラノ風」とは何なのか。
度重なる調査の結果、「ミラノ風」とはどうやら「黄色、黄金色」を示しているということが判明した。(決して赤と黒の縦縞ではない)
そう、あのターメリックライスこそがあのドリアを「ミラノ風」たらしめているのだ!
ちょっと待って欲しい。
つまり「ミラノ風」であるためにはあの黄色いライスを認識しなければならないということになる。
そうなると、濃いサングラスをかけたまま食べようとするとそれはもう「ミラノ風」では無くなるだ。
先天的な色覚異常の男性にとっても、あれは「ミラノ風」では無いのだ。
我が子に「ちゃんとしたミラノの」を食べさせてあげようと思う母親は、黄色いライスを視界に入れるようにしなければならないのだ。
ミラノの風は目で感じるのだ。
さて、ここで新たな疑問が浮かんだ。なぜ「ドリア」なのか。「ミラノ風」を振りかざすことで和食をイタリアンに偽装することが可能であるならば、なにもそれは「ドリア」である必要は無いのではないか。そう考えた我々はアマゾンの奥地へと足を進めた。
「ミラノ風天ぷら」
「ミラノ風ざるそば」
「ミラノ風すき焼き」
「ミラノ風うどん」
「ミラノ風寿司」etc…
これらの料理が美味しそうに見えるかどうかについては個人差が大きいような気がしないでもない。ただ個人的なことを言わせてもらえば、これらを食べてみたいと思う人はジョージマロリーに並ぶほどの冒険家であろう。
やはり、「ミラノ風」と抱き合わせるにはドリアが一番適しているという結論に異論はない。
そうなると次は「ミラノ風」を別の地名に変えてみる必要がある。そう考えた我々は再びアマゾンの奥地へと足を進めた。
「カルフォルニア風ドリア」
「マドリード風ドリア」
「シドニー風ドリア」
「サンパウロ風ドリア」
「ナイロビ風ドリア」etc…
こちらも個人差はあるだろうが、比較的美味しそうだ。
少なくともエベレスト初登頂よりは随分と気楽で美味しそうな冒険である。
つまりここまでに得られた結果をまとめるとこうなる。
日本人は横文字に弱い。
なんか適当にそれらしいカタカナを並べておけば、日本人は文字通り食いつく。
それは初恋のような衝撃だった。これが天命か、そう瞬時に悟った。
そうか、いま日本人に流行っている横文字のものがあったではないか!
「ミラノ風」のあれを売り出せば、きっと大流行するに違いない。
しかし私には許可も資格も手段もない…
非常に惜しい、しかし今回ばかりは後継に私の意思を託そう。
誰でもいい。この国に
ミラノ風タピオカミルクティー
を流行らせておくれ。